1.原点は、素朴に願った「世界平和」
1990年から今なお続く、目黒区の小中学生を広島へ派遣する平和記念事業に、小学6年生の時に参加。原爆なんて、この世に絶対にあってはならないという思いを心に深く刻みつけられた。
また、祖父はよく、満州で撃ち抜かれたという足首をよく見せてくれて、祖母も、軍の看護婦として働いていた昔話を聞かせてくれた。戦争の恐ろしさを、幼い頃から身近に感じさせられていたのだろう。
高校3年生の時には、9.11の同時多発テロが発生。なぜ対立や争いはいつまでも無くならないのだろう、どうすれば終わらせられるのだろうと考える。
一つの素朴な答えが、お互いがお互いを思いやる社会をつくること。しかし、現実には多くの人が他人に無関心。マザーテレサが言ったように、愛の反対は無関心だ。これを変えていくには、政治が変わらなければならないと率直に思い、議員として活動する原点となった。
2.政治は究極のサービス業だ。
大学を卒業したあとは、目黒雅叙園(現ホテル雅叙園東京)に勤務。目黒で生まれ育ち、この街を良くしていきたいと思った時に、どうしても目黒区の企業で働きたかった。
最初は宴会場の現場、後に法人営業を担当していたので、様々な区民、区内企業、地域団体の方々と触れ合うことができた。
雅叙園では、ある先輩から「サービス業の肝は、視野の広さだ」と教わった。お客様の状況やわずかな動きから、何を考え、求めているのかを瞬時に察知し、サービスを提供する。
政治も同じだ。目に見える事象だけではなく、日の当たらない部分までも目を配らせて、社会課題を抽出し、解決の手段を考え、提供していく。
余談だが、リーマンショック直後で、世間の財布の紐が最も固い時期に、宴会場という真っ先に削られる商品を扱う営業担当として、苦しい苦しい思いを味わったことは、自分の財産だと思っている。
3.落選からの再起
2011年の東日本大震災直後、27歳のときに人生で初めて挑んだ目黒区議選では、40票差の次点で落選。
こんなことが起こるのかと、信じがたく、途方に暮れる気持ちもあったが、不思議と諦める気は少しも起きなかった。政治家になることは目的ではなく、世の中を変えるための手段だと確信していたからだ。
浪人中の4年間、議員秘書として知識やスキル、さらには政治姿勢まで、徹底的に磨いたつもりだ。当時の上司が「この質問をしたら、自らの身に危険が及ぶかも知れない」と思いながらも、決して追及を止めることのない毅然とした態度を見せつけられたことは、今でも私の核の一つだ。
2015年の目黒区議選に2位・最年少で初当選したときには、準備万端。就任して1ヶ月後の議会ですぐに登壇し、今にいたるまで走り続けている。
4.「非協力的な夫」を猛省して
サラリーマン時代は毎日、日付が変わるまで働いた。まだ若かったし、頑張らなきゃと思っていた。区議会議員に初当選すると、ますます仕事に打ち込もうと決意した。長男が7ヶ月の時だった。
早朝から深夜まで働き、土日も地域の行事などに出かけ、ほとんど家にいなかった。行政や議会の知識はどんどん吸収できたし、顔が広くなって街の課題にも詳しくなったけれど、家事や育児のことは、専業主婦である妻に任せっきりで少しも分からなかった。
そのうちに、児童虐待問題に強い関心を寄せ、それが誰にでも起こり得ることだと知った。父親が非協力的で、妻が頼れる先もなく孤立。子育てに追い詰められて、わが子に手を挙げてしまう、これが典型的なケース。もしかして、うちもまずいのではと思い始めた。
そしてある日、限界が訪れた。窓は割れ、壁には穴があき、夫婦の仲は最悪の状態になった。頑張って働いてきたつもりだったけれど、明後日の方向を見て生きてきたことを思い知った。
人はすぐには変われないが、大きく心を入れ替えた。最初のうちは、大好きな仕事の時間を削ることが苦痛でたまらなかったけれど、深夜の残業や土日の活動、夜の付き合いを少しずつ控えて、家事や育児に取り組むようになった。2人目、3人目の子が生まれたときには1~2ヶ月の育休を宣言し、最低限の公務以外は家庭での役割に注力した。
議員として研究を深めていくと、父親が家事や育児に割く時間が多いほど第2子・第3子が増えて少子化対策にもなること、性別固定的な役割の押しつけが働く女性を苦しめていること、その裏返しで家庭を大事にしたい男性の足を引っ張っていることが分かってきた。
まだ一人前とは呼べないかも知れないけれど、やっと自分も「子育て脳」になったと思う。今どきの子育て中のパパ議員に求められるのは、仕事も家庭も両立するロールモデルではないだろうか。
家庭を幸せにできない人間が、社会を幸せにできるわけがない。